「おばさん、、、、、、まさか、、、?」
女性はこちらを見ました、
線路をまさかひとが歩いてくるのかと
思ったんでしょう。
目が合ったんです。
私はおばさんを上から確認しました、
おばさんも私を見ています、、、、
私はおばさんの顔を忘れていました、
この人だったのか?
ハセガワに少し似ている、、、。
「、、、、、、」
なんて声を掛ければいいんだろう、
そう考えました。
するとおばさんのほうから声を
掛けてくれました。
「良子の友達よね?、、、」
間違いない、この人はハセガワのお母さんだ。
「はい、」
そこから、会話が途切れました。
私は肩で息をしていました。
私は線路の坂をおり、おばさんと対峙
しました。
おばさんは少し驚いた顔でした、
私の顔を見て、ああ、知ってるこの子、
という表情でした。
おばさんはチラシの裏を使って書いた紙を持っていた、
「それは、、、?」
おばさんは笑顔で私に渡してくれました。
“ここにいます“と大きく書いた紙だった。
地図も書いてあった。
その紙には、
「全員無事です」
と書いてありました。
ああ、よかった、ほんとうによかった。
やっと私は笑顔が出ました。
笑っていましたが、乾いていた目が
潤ったのが解かりました。
其の時、潰れた家の中から、
兄らしき人が出てきました、
兄です、間違いない。
目が合ったんですが、3人で無言の空気
がしばらく流れました。兄は毛布を握っていました。
このときも、この人は毛布を握っていたのが、
印象的でした、優しい人、、、、妹を守ろうとしている。
素晴らしい人だ。
家の奥から、妹が出てきました、
糞尿のにおいがしました。
トイレにきていたらしく、
そのとき、親戚などが来たときのために、
チラシを裏口にはっておこうとたまたま来たんですと、おばさんは話してくれました。
「お父さんは?」
地元の消防団の仕事をしていたらしく、
今は救援活動をしているということだった。
皆無事なのを確認して、
ほっとしました。
よかった、、、、
つかれがどっと出て、
私は座り込みました。
寒い、、、、朝の冷え込みを身体で感じて、
身体が震えた。
地面から冷たい冷気を感じた。
おばさんは、私の顔をじっと見てました。
その時の私の顔はひどかったでしょう、
目は充血して真っ赤、その
目の周りは真っ黒、パンダのよう、髪の毛はぺったんこで、無精ひげが伸び、
革ジャンも傷だらけ、ひざからジーパンは
血が滲んでました。
「どこから来たの?」
「、、、、、大阪、、、です」
其の時によし、電話をしよう、
ハセガワの勤務先の電話番号を聞いていたので、
黒電話があった、受話器をあげた、
掛かる。(其の時は携帯電話は一般的には普及していなかった)
私はおばさんに説明して、電話を
すれば、娘さんは安心するからと言って、
電話を途中で変わってもらうように説明しました、
が、出ません。
出ました、「はい、○○スタジオです」
あっ、まだ出社してないんだ、
違う人です。
説明をして、この電話に出社したら掛けるように
お願いしました。
向こうの人は少し不思議そうな様子でした。
それから
電話の向こうの人は事情が飲み込めたらしく
神戸からということで、驚いていた。
一旦電話を切りました。
お母さんと目が合う。
しばらくしたら掛かってくるはず。
兄と妹は
駐車場に戻るといって、その場を去りました
兄と妹は建物が倒れて路地の隙間から
南から東に行きました、ああ、そっちからここに
これたんだ。
後姿をずっと見てました。
曲がり角を曲がるまで見届けて
大きく息を吐きました。
「バイクで来たの?」
お母さんは聞きました、
何で解かったんだろう?
「あ、はい」戸惑ったが、其の時
グローブをはめていたので、それで気が付いたのだろう。
グローブを取ろうと思いました、
ベリっ
引っかかった音がしました。
痛い、目を閉じたくらい痛かった。
右手の中指の爪が割れていた、
乾燥していた、転倒したときだろう。
母親は溜まっていたものを出すように
話し始めた。
「私たちは大丈夫よ、駐車場に車が2台あって、
大きい車だからそのなかで生活はしばらくできるから、ガソリンもまだまだあってたまたま満タンだから、
こういう状況でも大丈夫、しばらくしたら
救援隊とかもくるはずよ。」
其の時は自衛隊が助けにくるなんて想像できなかった。
「、、、、」
お母さんはきっと私に気を使ったのだろう、
そんな簡単な状況じゃないのはわかっているし
そんな保障は無いと私は思っていました。
この人は私の目を見て、不安そうな感情は
無いから大丈夫、、、と目で訴えた。
私はこんな状況なのに、この人は私に気を使っている、、、何をしているんだ俺は。
励ますつもりで来たのに、逆に気を使わせている。
「水、、、リュックの中にあるんです」
申し訳なさそうな顔だったが、遠慮なく私は
水を渡した。3本あれば、一日はもつであろう。
駐車場の場所を教えてもらった。
なんと潰れた降下のすぐ近くだった。
安堵感がこみ上げてきて、座って電話を待つことにしました。と其の時電話がなって、、、
すばやく私が取ってしまいました。
「もしもし、」
「あれ?なんで?、」
私の声を聞いて不思議そうでした。
「お母さん変わってあげてください」
マラソンのゴールのテープを切った気持ちでした。
誰にも見えない、白いテープを私は切った感覚でした。
私の役目は終わった。
お母さんは嬉しそうに話していた、
安心した表情でした、何を話しているかは
解からないが、ずっとうなずいていて、
「みんな無事やから、安心しい。」
その言葉は聞こえた。
そのときものすごい達成感を味わいました。
辛かった、けどやり切れた、こんなに
人の役に立てたと思えたのは初めてだった。
終わった、少なくとも今の状況では、
これ以上は考えられない。
私はバンディットが心配になりました。
お母さんは会話が途切れて、
私と変わってあげてと言った。
私が電話に出ました、
ハセガワは何を言っているのか良く解かりませんでした。泣き崩れていたのでしょう。
「有難う」と聞き取る事は出来ました。
恥ずかしくなって、じゃ切るねといって
あっさり電話を切りました。
お母さんは満足そうな顔でしたが、
これからの不安も有るから、100%の笑顔では
無かった。
今は携帯電話が普及していますが、この当時はこんな感じでした。
「まだ水も食料もありますよ、もってきます」
駐車場で待ち合わせをすることにして、私は線路から行きました。
歩いた、指が痛かった。
しばらく歩くとバンディットらしき
バイクが見えた。
私はバンディットを確認しました。
よかった、なにも変わっていない。
掛けよう、
セルを一応回しました、あれ?
掛かった。静かに空ぶかしした。
それから北にあがって、東に行って、南に
下りました、駐車場はありました。
お母さんはいました、
?おじさん、、、かな?
父親でした、思い出しました。
ヘルメットを脱いで、
おじさんは「ようこれたな!」
私の肩をばんばん叩きました。
「は、はい、」
この人達の状況を考えると私の途中経過など
しょうもない、くだらない話だ。
コンテナを下ろそう、しかし下ろす必要は無い
から、中のお米、水を手渡しで皆に渡しました。
「もし足りないものがあったら、私の家に電話
してください。」
家の電話番号を教えた。
「大丈夫、何とかなるよ!」
親父さんは力強くそう答えた。
ああ、なんて「大人」なんだって思いました、
ほんとは不安で、これからどうなるんだろうって
気持ちでいっぱいのはず。
私がいることで、この人達に、
きっと気を使わせている
そう気づきました。
そうなんです、なんて大人なんでしょう、
其の時は少し申し訳ない気持ちになって
帰ることにしました。
「必ず電話下さい」
私はおばさんにそういいました。
おばさんはうなずいた、ちょっと目が潤っていて
鼻を小さくすすっていた。
私はそのままセルを回して、
出発しました、南に、2号線に向かっていきました。
もう明るい、朝の渋滞が始まっていた。
路肩を走るバイクの列が延々と先に見えた。
尋常じゃない数のバイクでした、ヘルメットが20個くらい続いていた
やっぱりこういうときはバイクが頼りなんだ。
疲れた、、、のどがカラカラだが、
なんとかこの大渋滞をクリアーしないと。
でも行きの道を考えると、これだけ車とバイクがいっぱいいるとなぜか安心した。
でも、明るい状況での帰り道は、改めて悲惨な神戸の町を見てしまいました。
警察の姿は全く見ませんでした。
こういうときは居ないんだ、
もうどうでもよくなっていました。
それから、ひたすら渋滞です、
左手がパンパンになってきて、
意識が薄れてきました、足が痛かった、
ポジションを楽な体制に替えると、
ひざがひっか掛かったような痛さを感じた。
私はもうボロボロになっていました、
其の時は渋滞をどうクリアーするか
ばかり考えていました。
疲れた、本当に辛い、
体中が痛かったので、本当に運転に
集中していました。
もう記憶がいまいち残っていないので、
このときの話は割愛いたします。
ただ武庫之荘、尼崎あたりからは景色が
いつもとほとんど変わっていなかったのは
覚えています。朝日オートセンターが見えて
安心しました。
何回かエンストしました、狂ったフロント周りで
変な癖を押さえるのは大変でした。
十三、淀川区は地震の影響はなく、
すんなり帰れました。
家が近い、、、、
しかし、良く考えたら、ガソリンがよくもったな
と思いました。
4スト250は初めて所有したので、
こんなに航続距離が長いとは知りませんでした。
家に着いた。
玄関の扉を開ける、
母親は仕事だ、
リュックを玄関に落とすように降ろした。
水、、、
浄水器の水を思いっきり出す。
コップについで、そのまま出しっぱなしで
飲む、飲みきって又ついで、また
出しっぱなしで飲む。
飲む飲む飲む、、、
「水が勿体無い!」
そんな事を考えたことはいままでなかった、、、。
蛇口を閉めた。
テレビを付けました。
暖房を入れ、冷えた身体を温めます。
テレビを見ていると、自衛隊の出動要請の話が
流れています、死者600名、、、、
その数字はどんどん挙がっていきました、
最初見たときは、その数字だったと思います。
テレビを見ながら後ろに倒れました。
天井を見て、
「またこないだろうな、、、。」
恐怖心はなかなか無くなりませんでした。
あの時の親子を思い出していました、
あの子供はどうなったんだろう、、、、、、、、
あの子供の目が忘れられませんでした。
そのまま眠ってしまいました、
まるで一瞬の間に眠りました。
落ちたような感覚。
自衛隊が出動したのはそれから
かなり後でした。
この間の日数はかなりあいていて、テレビでも
問題になっていました。
ほんとうに酷い、惨い地震でした。
その時私は接客業をしておりました。
仕事は20時に終わったので、
次の日から私は回った近隣の学校に水を宅配しました。
10日間徹夜の日も有りましたが、ペットボトルや食料を
運び続けました。
若かったから出来たのでしょうか、
使命感だけで運搬しておりました。
使命感という言葉は後から知りました、
そのとき私を動かしたのはなんだったのか
よく解りません。
その時私は人間の醜さを身体で感じました、
水を受付に持っていったときに、
私に直接水をくれと現金で交渉してきた人が居ました。
「救援物資運搬」と書いた紙をトランクボックスに貼っていたので、
それを狙ったのでしょう。
私は断りました、
私もお金が無かったので、現金は欲しかったです、
正直ものすごいガソリン代に困っていました。
でも、そんなお金より、みんなに平等に水を分配して欲しい、
老人と子供に優先して水や食料を渡し欲しい。
そう思っていました。
家に帰ると、
自治会の方々が私に現金をカンパしてくれました。
驚いたのですが、
「私たちの代わりにこの物資を運搬して欲しい」と、
物資運搬を頼まれたのです。
私は泣きました、、、本当に嬉しかった。
これでガソリン代は何とかなる。
母は、私の事を心配してくれました、
自治会の人達が、「自慢の息子さんだね」と、母に言ってくれて、
母は泣いていた。
あの時の親子には、二度と出会うことはありませんでした、
きっとあの子供の目、父親の「有難う」という
言葉が私を動かしたのかも知れません、
きっと元気にしていると思います。
私のほかにも、何人か、同じようなライダーを見ました。
ボランティア、、、、、あとから良く聴いた言葉ですが、
そんな甘い感覚ではありません。
今目の前で人が閉じ込められている現場も見ました、
仕事があるからという言葉は通用しません、
皆で協力し、皆で助け合うということは
泥臭いものですが、今の一部の若者に一番足りない
ものなのでしょう。
あの時のライダー達は今もバイクに乗っているのでしょうか、、、、、私はまだ乗りますよ。
それから、自衛隊が浴室などを作りはじめ、
徐々にみなの
表情が明るくなったところを見ることができ、
27日で私は運搬をやめました、
この間の話は山ほどありますが、割愛致します。
精神的、体力的に辛かったですが、とても充実した日々でした。
それから神戸に行ったのは、
その年の暮れの初めてのルミナリエでした。
ルミナリエは被災者の魂の浄化というコンセプトで
始められました。
お墓参りのようなイベントです、
今はカップルのイベントのようになっていて、
心外ですが、
良く行くのですが、あれは魂の鎮魂なのですよね、
勘違いしないで欲しいと思っています。
私の中で神戸は特別の思い入れがあります、
湾岸線もテストに使っていますし、
いいところです。
嫌な記憶も今は私の力になってくれています。
行ってよかった、行かなかった今の自分は無いと思い
ますし、本当にいい経験でした。
私はあの時20歳、よくあそこまで走れたと思います。
ただ、運が良かった、、、、そう思います、
下手すれば、建物に潰されていたりしたかも知れません。
あのときのスズキのオフ車は結局わからずじまい、
きっとどこかのボランティア団体だったのか?
未だに、、、思い出すことがあります、あの力強い走りを。
よくわからないまま10年がたちました。
神戸で何人も死体を見て、一人一人、
ドラマがあるんだ、悲しい出来事だったけど
悔やんでも帰らない人達、その人達のためにも
忘れずにバイクに乗ろうと、今では思います。
私のバイクに乗らなかった空白の時期は
神戸の記憶があまりにも悲惨で、
思い出してしまうという気持ちから
出来たものだと思います。
今は大丈夫です。
今はバイクに乗っていることを誇りに思い、
自信を持って人に言えますね。
若い人の乗り物というイメージはあると思いますが、
若い人だけではなく、バイクに乗ることによって人は成長する
素晴らしい乗り物でもあるということを一人でも多くの人に
理解してもらいたいです。
私はそう思っています。
今、私はあのときのジェベルに感謝しています。
今、私はカタナに乗って、あの時のジェベルのように、
先頭を走って行きたいと思っています。
あのときのジェベルのように、
私が走ることによって、
誰かが、何かを感じてくれているのかも
知れませんから。
お見苦しい点多々あったと思いますが、
なにぶんお許し下さい。
長文お付き合い頂き有難う御座いました。
10年以上経ちました今でも私は被災者様の
事は忘れておりません。
いや、忘れられません。
神戸被災者の方々のご冥福をお祈り申し上げます
人的被害 死者 6,433名
行方不明者 3名
負傷者 重傷 10,683名
軽傷 33,109名
計 43,792名
長文お付き合い頂きありがとうございました。
2005年1月17日